「経過は順調ですね。もう心配はないでしょう。全く、奇跡としか言いようがないですね、この回復力は。」
消毒液の匂いのする診察室で医師は彼女、美坂栞にそう告げた。
「ええ、でも起こらないから奇跡って言うんですよ。」
栞は右手の人差し指を口元にあてて微笑んだ。
「本当に良かったわね。これも相沢君のおかげかしらね〜。」
ウェーブヘアの少女、美坂香里が隣を歩く妹に話しかけた。香里は栞の一つ年上の姉である。栞は生まれつき持病を患っており、16歳の誕生日までは生きられないだろうと言われていた。そのことに香里は悲しみ、始めから妹はいなかったのだと自らに言い聞かせ、栞の存在を無視するようになっていた。そのことに悲しむ栞。二人の姉妹の間に冷たい溝が生まれていった。しかし、この町に転校してきた少年、相沢祐一との出会いを経て二人の間の溝は埋められ、おまけに生きられないと言われた16歳の誕生日を迎え、現在栞は17歳、香里は18歳の夏を迎えていた。栞は1年留年して高校2年、香里は東京にある、T大学に合格し、大学生初めての夏休みを過ごしている。
「もう、お姉ちゃんからかわないでください。祐一さんは私にとってはお兄さんのような存在であって、祐一さんにはあゆさんという彼女がいるんですから。」
栞は顔を赤くしながら、香里に反論する。ちなみに「あゆさん」というのは、祐一の恋人で7年間意識不明だった少女である。彼女のことは後ほど語ることにしよう。
「お兄さんか〜、言われてみたいね〜。あ、オレと香里がくっつけばいいのか!」
「なーにアホなこと言ってるのよ、北川君」
「えー、オレ真面目だぜ〜。」
頭のてっぺんからぴょんと髪が一本立っている、特徴的な髪型をした少年、北川潤は両手を頭にまわしたまま香里の隣を歩いている。彼は香里の高校時代からの男友達で、地元の私立大学に通っている。高校時代には香里のことを「美坂」と苗字で呼んでいたのだが、ある日を境に「香里」と名前で呼ぶようになった。そんな彼は今回、里帰りした香里と商店街で会い、栞の定期健診についてきたのだった。
「私、軽薄な人は嫌いなの。」
「おいおい、オレが軽薄だってのか!?」
「昨日、百花屋の前で話してた女の子は誰?」
「っげっっ!!み、見てたのか!?」
「ふふ、お姉ちゃん、嫉妬してます。」
「んなっっ!!そ、そんなわけないでしょう!!な、なんで私が嫉妬なんか・・・」
「な〜〜んだ、香里嫉妬してたのか?心配するな、オレにはお前しか見えていないからな!」
「ぶっとばすわよ。」
「お姉ちゃん、ちょっと怖いです。」
3人は病院を出て、商店街に向かっていた。誰からともなく足を向けていた。彼らにとって商店街というのはいわゆるたまり場的存在であったからだ。3人は無駄話をしつつ、とあるコンビニに入っていき、栞の好物である「バニラアイス」を買い、公園のベンチに腰掛けてアイスをそれぞれ食べることにした。夏の昼時ということもあり、人の姿はあまりなく、うるさいセミの声だけがあたりを満たしていた。
「そーいやー、香里はいつまでここにいるの?」
北川が香里に話しかけた。
「ん〜〜、夏休み中はずっとこっちにいるつもりよ。でも、それがどうかしたの?」
「いや、いつかまた俺ら4人組で集まってどっか行きたいな、って思ってさ。今年の春みたいにさ。」
ここでいう4人とは香里・北川・祐一にもう一人水瀬名雪という少女を入れた高校時代の仲良し4人組のことである。彼らはこの春、卒業記念に九州に旅行に行ったのだが、この話はまた機会があったときに話そう。その際、もう一人「食い逃げ娘」が内緒で同行してきて実際には5人の旅行だったということだけは付け加えておく。
「そうね〜、でもせっかくなんだから他の皆も誘いましょうよ。前回もあゆちゃんがついてきちゃってたんだし。あとはあの真琴ちゃんとか、栞の友人の美汐ちゃんとか。」
「私もいいんですか?」
「あ〜、それいいな〜〜。他にも川澄先輩とか倉田先輩とかも呼んだりしてな〜!」
「でも確かあの二人は海外留学中じゃなかったかしら?」
「あ〜、そうだったけ?でも夏だから帰ってきてるんじゃないか?ま、その辺は相沢に確認すれば分かることだしな〜。」
「真琴ちゃん」とは水瀬家に居候する元記憶喪失の少女、「美汐ちゃん」とは栞とあることがきっかけで知り合った、栞と同年齢の少女、「川澄先輩」と「倉田先輩」とは現在ドイツに留学中の仲良し2人組のことで、彼女らの話も後ほど詳しく述べたいと思う。皆、祐一を介して知り合った者同士である。
「それなら私、海に行きたいです。去年はお姉ちゃん達の受験勉強が忙しいということで行けませんでしたから。」
栞が右手の人差し指を口元にあてたおきまりのポーズで言う。
「そうね、そういえば栞はまだ海に行ったことが無かったわよね。かくゆう私も中学時代に名雪と名雪のおばさんに連れて行ってもらったきり一度も行ってないわね。」
「海か〜〜、かわいい水着の女の子達と〜〜・・・」
「・・・ジロッ・・・」
「じょ、じょ、じょ、冗談だよ〜〜・・・、アハハハ・・・」
香里の相手を射殺すような視線に北川は言葉をにごらす。その様子を面白そうに眺める栞。彼女の笑顔は本物だった。かつて、自らの死を覚悟していた時にみせていた「笑顔」とは違った本物の「笑顔」だった。
「そうね、今日帰ってからにでも名雪に連絡とってみるわ。あの子も帰ってきてるでしょうし。美汐ちゃんには栞が連絡とってね。真琴ちゃんは美汐ちゃんに頼みましょう。」
「分かりました。」
ちなみに名雪は隣の県の私立大学に、祐一は北川と同じ大学に通っている。もともと祐一は水瀬家に居候していたのだが、現在、祐一は水瀬家を離れて町内にアパートを借りて住んでいる。
「祐一さんやあゆさん達と海か〜。」
栞は青く晴れ渡る空を見上げてつぶやいた。彼女にとって祐一とあゆは再び笑うきっかけを与えてくれた人達であり、兄やもう一人の姉といった存在でもあり、大切な「友人」でもあった。ただし、あゆは今年高校に入学したため、学校ではあゆは「後輩」という立場となってはいるけれども。
「そういえば栞ちゃんは泳げるの?」
と北川が栞に向き直る。香里は相変わらず北川を睨んだままである。
「私ですか?ん〜、実は泳げないんです。お医者さんに体育は止められてたので。でも、今年からあゆさんとプールで泳ぐ練習を始めたんですよ。あゆさんも7年間眠っていたので全く泳げない、ということだったんで。」
「ふーん。あ、まさか最近相沢の付き合いが悪いのって・・・」
「あ、たぶん私達に泳ぎを教えてくれてるからだと思います。」
「相沢君、なかなかの女たらしね。」
「そ、そんなんじゃないよお姉ちゃん!!」
「ふーむ、あんにゃろめ、大切な用事だとか言って女の子達を独り占めしていやがったな〜〜。」
北川は両のこぶしをにぎりしめて地団太をふむ。その様子を横目で見ながら香里は溜息をつく。
栞とあゆの二人は高校の中でも特に仲のよい二人として有名で、かつての川澄・倉田の二人のようだと言われている。おまけに、あゆはあらゆる意味で「問題児」ということでそこまでそっくりだと言われている。そんな二人の共通の問題として浮上したのがプールの授業だった。栞は中学時代には体育自体の授業を医者によって止められていたので、当然泳げるはずもなく、あゆにいたっては7年もの間眠っていたのだ。二人にとってそれは大問題だった。そこで二人は秘密特訓をすることにした。土、日を利用して暇な祐一を駆り出し、市民プールで練習することにしたのであった。
栞はみるみる上達していくのだが、あゆはまずバタ足をマスターするのに3日かかった。その後、息継ぎなしで20m泳ぐという謎の特技を身に付けたりはしたが・・・。
「お前、食い逃げで肺活量鍛えてるからな〜・・・」
「うぐぅ、そんなこという人嫌いだよ〜。」
「それ、私のセリフです・・・。」
「栞はこの調子で絵の方も上達すればいいのにな〜。」
「うぐぅ、いじわるです〜・・・。」
「それ、ボクの口癖・・・。」
3人はそれからしばらく話していた。夕方近くになり、セミの声も少なくなってきた頃、3人は解散した。北川は祐一の家に襲撃、香里と栞は自宅へ。その帰り道、香里の顔がいつもより嬉しそうに栞には見えた。そして栞もこれからのことを考えるととても嬉しくなっていくのだった。栞は赤く色づく空と、染め上げられた商店街の軒並みをしみじみと眺めた。
笑顔を取り戻した少女にとって、本当に心から楽しめる夏はまだ始まったばかり。